ゆとり世代のプロサッカー選手。丸山龍也のオフィシャルブログ。現在は欧州リトアニアでプレー中。

2014年11月3日

プロフィール

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はじめまして。

僕は才能も特長も大してない普通の人です。でも一応サッカーをすることだけで生活しています。

そんな僕のことを少しでも知ってもらいたくブログを開設し日々更新にあたっていますが、

「ていうか丸山ってどんなひと?詳しく知りたい!」と興味を持ってくれる方も少なからずいると思いますので、ここにそこそこ詳しいプロフィールを書いておきます。

長々と書き連ねていますが、まあ暇な時にのんびり見て頂けたら幸いです。

 

 

 


丸山龍也プロフィール

ステータス

  • 丸山龍也(まるやまりゅうや Ryuya MARUYAMA)
  • 1992年7月4日生まれ。アメリカ独立記念日です。
  • まさにO型って性格のO型。
  • 神奈川県横浜市出身。いわゆる港北ニュータウン。
  • 174cm68kg 右利き
  • 50m走のタイムを計ると6.8秒ぐらいになる普通の足の早さ。
  • その他特筆すべき身体的特徴なし

という、中肉中背フツメンのどこにでもいる若者です。私は。

 

 

所属クラブ

  • 横浜港北サッカークラブ(7歳〜12歳)
  • 横浜市立中川中学校サッカー部(12歳〜14歳)
  • FC COJBジュニアユース(14歳〜15歳)
  • FC COJB(15歳〜18歳)
    神奈川県リーグ3部ブロック優勝(2008,2009,2010)
  • アンソメット岩手・八幡平(18歳〜20歳)
    岩手県3部優勝(2011)
    岩手県民体育大会優勝(2011,2012)
    天皇杯全国サッカー選手権岩手県予選準優勝(2011)
    クラブチームサッカー選手権岩手県大会優勝(2011)
  • ラインメール青森FC(20歳〜21歳)
    東北社会人2部北ブロックリーグ優勝(2013)
  • ニューヤングスFC(22歳)
    スリランカチャンピオンズリーグ(2014)

 

※その他 ブラジル留学・アトレチコ・ジョゼエンセ(2007夏)、サンパウロSCやコリンチャンスと対戦、クーバー・コーチング・サッカースクールあざみ野校(10〜12歳)、川崎フロンターレU15スクール(13〜14歳)、ベトナムリーグ、ナビバンクサイゴンFC練習生(18歳)、タイリーグにて各チームトライアウト、各所社会人リーグで出場など。

 

 

学歴 

横浜市立茅ヶ崎保育園→横浜市立南山田小学校→横浜市立中川中学校→神奈川県立横浜翠嵐高等学校→神奈川県立横浜修悠館高等学校→慶応義塾大学法学部

慶應についてはトリック?があるので(笑)これについては後々書きます。

公立で義務教育を終えたあと、定時制高校から通信制高校に編入する・・・という学歴的には秀でたものはない、むしろヤンキーとか引きこもりとか、そういう部類の人たちが歩むような道です。まあ、ある意味ヤンキーだしある意味引きこもりなんだけど、俺も。

 

資格・免許・実績

  • 普通自動二輪免許
  • 普通乗用自動車免許
  • 日本サッカー協会4級審判
  • サッカー検定4級

 

サッカー検定ってなんにもならないのね。あとまだまだなんか持ってた気がするけど・・・忘れた。

 実績はない!ないったらない。

 

性格

性格は社交的で明るくて活発で・・・という男の子でしたし、今もそれは基本的には変わらないと思います。誰とでも仲良くできるし、誰とでも仲良くしていたいタイプ。友達も知人も多いですが、敵も多いようなタイプです。

人間性は色んな要素が交じり合っててカオスとなっていて、自分自身でも自分の性格やタイプがはっきりしません。一見ポジティブなようで根は凄まじくネガティブだし、アウトドアなようでインドア。アクティブっぽく見えて出不精です。普通の男の子は嫌だけど、普通の男の子でいたい。もうわけがわからない感じ。

ただ、【行動力】【諦めの悪さ】【発想力】というキーワードは、自分の特長であり長所であり生命線です。

何かに一筋というより、色んなことに目を奪われてあっちゃこっちゃ寄り道しながら、たくさんの人や物に触れ、様々なことを感じて学んで、無理やり自分の糧にしてきました。

 

 

 

 

人生の歩み

こっから凄まじく長い文章が続きます。というかこのページのメインコンテンツです。

なるべく読みやすくしているつもりですが、是非ごゆっくり読んでいただけると幸いです。

読み終わった時には僕に少し親近感が沸くかも・・・

 

 

 

 

 

サッカーとの出会い

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小学校1年生の時に、いつも遊んでいた拓己くんと美瞳くんが急にサッカーを始め、週末に遊ぶ友だちがいなくなった!ということでやることになったサッカー。最初はただの習い事でしたが、小2の時に見ていたシドニー五輪の準々決勝アメリカ戦。エース中田英寿がPKを外して日本が敗退するのですが、これを機にサッカーにのめり込みます。

この日本が敗退した夜に「俺が絶対日本代表になって、ヒデの代わりにアメリカを倒す!!!」と涙しながら思ったのが、サッカーにスイッチが入った瞬間でした。以降、将来の夢を聞かれた際には「日本代表」と答えるようになります。

所属していた横浜港北SCというチームは、区では優勝、市大会に出るとベスト16がやっと、県大会では中央大会に出られない。。。という学年でしたが、自分の持っているサッカー熱とは裏腹に、レギュラーになってみたりベンチに入ってみたりという実力でした。足が遅い、下手くそ、ドリブルするな!と言われまくっていたので(笑)でもすごく楽しかった。

とは言え「チームで試合に勝つという喜び」と「負けると悔しいって気持ち」に加えて、試合に出られると楽しいし、出られないとつまらない!ってのを学べる丁度いい立ち位置だったと思います。当時のチームメイトは今でも仲良しです。

 

 

 

 

 

 

中学時代

小学校6年生になると進路も様々となっていきますが、僕は特に選抜チームに選ばれたりするわけでもなく、何かどっかから声がかかるわけでもなく、当然強豪ジュニアユースチームのセレクションではかすりもしないわけで、普通に地元中学校のサッカー部に入ることに。

試合には出てたし、気のあった仲間たちとするサッカーはすごく楽しかったですが、誰かに厳しくされるわけでも何かを教わるわけでもない環境だったので「なんかこれじゃプロサッカー選手になれそうもないな〜」と思ってたところ、部活はひっそり退部。と同時にジュニアユースチームに入団。

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周りには『サッカーでプロを目指す』なんて堂々と言えなかったこともあって、グレて部活に行かないふりをして、そそくさと学校から帰宅し放課後にジュニアユースの練習に通う毎日でした。中3の夏にはなんとブラジル留学を経験。20歳前後の選手に混ざって、サンパウロFCの若いチームやコリンチャンスの2軍と試合をすることが出来た大変良い経験でした。

 

 

 

 

 

高校年代でのサッカー

高校進学の際には、もう本当に家族関係やら親の方針やらサッカーやら先生やらの狭間で揺れ、私生活もしどろもどろ、これを機にサッカーを辞めることなんかも考えながら、葛藤。

結局午前から社会人クラブで練習をし、午後から定時制高校に通うというアンダーグラウンドの世界へ飛び込みました。

当時所属していた「FC COJB」というクラブは、会社としてはブラジル留学の斡旋などを行いながら、国内ではプロを目指す若者が集い、週6で毎日トレーニングに励むという異質の集団。15歳から30代まで幅広い年齢層の選手とトレーニングをする環境でした。

自分自身やさぐれていたこともあり、様々な経歴の先輩達や指導者にしごかれながらの毎日がめんどくさくなって、練習に行かないこともしょっちゅうでした。同年代は高校サッカーやクラブユースでサッカーをしている中で、現実的に「プロ」を意識してサッカーをすることに疲れていたかもしれません。

すさまじい努力を重ねていて実力も間違いなくある先輩選手たちが、軒並みプロへの道を閉ざされていたのを間近に見て、プロにはなってみたいと思いつつも「俺じゃ絶対無理だわ」なんて思っていたのもこの時期です。

 

 

 

具体的にプロになりたいと思い描きはじめた頃

そんな生活を送っていた高校2年の頃です。現役を退いてブラジルで指導の勉強をしていた宝槻コーチ、ブラジルでプロ契約し次のチャンスを探していた雄大くん、音楽業界からサッカー選手へ転身を目指していたシバさんの3人と一緒にプレーするようになってから、徐々に自分の中での「プロ」という像が具体的になっていきました。

宝槻さんのプロ基準のトレーニング理論、雄大くんのプロサッカー選手に絶対なるというアツさ、シバさんの実力が劣る中でもプロになるために行う工夫。

20代半ばの先輩たちが自分の情熱をすべて捧げて、目標にトライしていく姿を見る中で色々なものを学びました。その他にも様々な素晴らしい先輩たちがいて、それぞれから凄まじい影響を受けましたが、自分のアンテナによく引っかかったのは特にその3人でした。

 

そんなこんなで自分も高い意識でサッカーをするようになり、トレーンングを重ねていく上で色々と調べました。

海外へのトライアウトや留学、サッカー選手へのなり方、レベル、トレーニング方法から栄養学・・・。調べれば調べるほど、「定時制高校に通いながらサッカー選手になる」という例がまったくなく、現実的に壁を感じることが増えていきました。もうプロ云々より、「地域リーグとかでそれなりの数のお客さんの前でプレーできればいいや」なんて考えたりすることも増えてた。

普通ならこの辺で諦めるところですが、そうは問屋が卸さないのがリュウヤメンタリティ。サッカーの才能も勉強の才能もないですが、【行動力】【諦めの悪さ】【発想力】という才能があったのが、これ以降の自分の人生に大きな影響を与えていきます。

インターネットを使ってとにかく情報収集。セミナーや勉強会にも積極的に参加したり、mixiなどのSNSを使ってプロにツテのある人に片っ端からアプローチを掛けたり、とにかく自分から動いてどうにかしようと藻掻きます。

こうやって自分から行動し始めるとなにか起きるのが人生の面白いところ。この辺でアクティブに動いて得た縁や情報は、のちのちにすごく効いてきます。

 

 

 

 

 

 

 

高校を辞めるという決断

高校3年生になると、現実的に卒業した後のことも考えはじめます。今のチームに残ること、大学進学、海外挑戦、国内でセレクション、違う道に転身。。。先が全く見えない中で、どうにか自分の答えを見つけなければならない作業は苦しかった。

 

色々考えていくと午後に学校に通ってる意味を見出だせず、結局、親にほとんど何も言わず、定時制高校は辞めて通信制高校への編入をすることになります。

 

 

社会的に見ると地位の低い定時制高校ですが、しっかり通って卒業すると一定数の企業や会社からはそれなりの評価を得られるものです。働きながら学校に通うことは難しいですし、多種多様な人間模様の中で学校生活を送ることはその人の人間的成長に大きな影響を与え、人として「タフ」になるのです。定時制高校はしっかり卒業すればそんなところもしっかり評価されます。

さらにうちの学校で言えば、卒業さえすれば県内屈指の進学校を卒業したのと何ら変わりのない卒業証書を貰うことができました。

 

 

 

それらすべてを捨てて学校を辞め、通信制高校に編入。学歴だけ見るとその辺でぷらぷらしているヤンキーと変わらず、こういう行動をすることでの周りからの評価についても理解していたので、自分としてはまさに背水の陣を敷いたつもりでした。すべてをサッカーに捧げようと決意した瞬間でした。

 

この辺の関連記事:「背水の陣

 

 

 

 

鎖国から開国

今も仲の良い豊嶋邑作選手との出会いもこの辺りでした。誕生日の近い、丁度まるまる1年先輩の彼はアンダー世代の代表に名を連ねたり、レイソルユースでは10番をつけるまさにエリート。

そのエリートが、惜しくもレイソルのトップチームに上がれず、縁あってCOJBで一緒にトレーニングすることになるのですが、当時同年代の選手とプレーする機会が殆どなかった僕はまさに「鎖国」状態。

プロまであと一歩の同年代にもし全然通用しなければ、自分が描いてた「プロ」への道のりも、中学の部活を辞めてからの自分も否定される・・・そんな思いでの初対面でした。邑作が来る予定の3日前ぐらいからすごく緊張していたのを覚えています。

結果、一緒にトレーニングしてみると、彼のほうが圧倒的に実力も考え方も努力の質も上でした。豊嶋邑作という選手は見てくれはほとんど僕と変わらないサイズ感なのですが、身体能力から技術からインテリジェンスから…99%の分野で僕を大きく上回っていました(笑)

ですが、当時の僕はその中に微かに手応えも得ました。相手とボールの間に身体を入れ込む技術と、フィジカルトレーニングの耐久力、個人でトライしていく本質部分の理解度では、僕が僅かに上回っている(かもしれない)と感じました。

彼はJリーグにいてもおかしくない実力ですから、その選手に上回っている部分があるのは自身にもなり、現実的にどのぐらいを目指せばいいのか物差しもできたので、本当に彼との出会いは良かった。

この辺の関連記事:怖楽しみ 」「戦場のようなピッチ」「物欲

 

 

 

 

 

 

 

そしてプロへトライ

そうしてトレーニングを続ける毎日でしたが、学校をやめた分、自由に使える時間も増えました。

ひとつはバイト。色々なバイトをしながらお金を稼ぎ、稼いだお金は服や遊びにはほとんどお金を使わず、サッカー用具や本、サプリメントにセミナー費用など、ほとんどを自己投資に使いました。

自主練の時間も増えたし、色々な経験をしてきた人と出会って、お話させて頂く時間も増えた。

 

そんな中、稼いだお金で冬にはベトナムに渡り、ベトナムリーグへトライします。

結果は出ませんでしたが、高校3年生で自分でお金を貯めてプロにトライした・・・というのは非常に大きな経験になり、自信にもなりました。

また、代理人に騙されて行くあてのない外国人選手を何十人も見たり、自分自身も現地に行ってみると「欲しいのはデカくて強くて速くて、黒い選手だ」と言われたり、思うようにテストできなかったり・・・海外でプレーする厳しさなどもたくさん学びました。

 

そうして無念にも帰国するのですが、その後も熱意は衰えず、プロ契約を目指して日本全国トライアウトの旅に・・・

持ち前の行動力で、ネットに転がってる情報は隅から隅まで目を通し、Jリーグから県リーグレベルまで、日本全国津々浦々。時間とお金があるかぎりテストを受けまくりました。

そんな中、兵庫で行われたセレクションで、声をかけられ、岩手県にあるアンソメット岩手というチームと契約することになります。

ちなみに一部を除いた地元の友達には中2で部活を辞めて以来、「その辺でプラプラしているニート」的なものを演じていたのですが、このタイミングで本気でサッカーをやっていることを告白。驚かれると同時に、多くの人に応援してもらえるようになりました。

 

 

 

 

 

 

 

岩手時代

チームがJリーグ入りを目指して活動していた岩手では、毎日の食事に住まいをチームやスポンサーさんに用意してもらい、重要な試合では勝利給が出る契約でした。ほとんどが大卒で加入した選手で、それに加えてプロ経歴のある選手が何人か、更にはブラジル人も一番多い時で4人所属してて、チーム発足当初は韓国人も2人いました。

18歳まで「鎖国」していた僕ですから、そういう選手たちとするサッカーは刺激的で面白い毎日でした。チームのカテゴリは県リーグでしたが、JFLでも殆どの選手が働きながらのプレーをしている中、岩手ではサッカーだけしていれば飯を食える環境と大変恵まれていて、「俺も頑張ればサッカーで飯を食えるんだな」という一株の自尊心も芽生えました。

地域の皆さんにも大変よくしてもらい、子どもたちやおじいちゃんおばあちゃん、支えてくれるスポンサーの方色んな人からパワーを頂きながらプレーしていたのですが、チームの最大の目標である天皇杯の予選決勝で、なんと途中出場直後に一発退場。チームも敗れました。

お後もよろしくなく、何が何だか理解できずパニックになりロッカールームなどで大泣きしながら大暴れしたので、その後サッカー協会から7試合の出場停止と、破損物品の実費を請求されます。

翌日、岩手での新聞には、ウサイン・ボルトや坂本勇人と同じサイズの写真で、レッドカードを掲示される僕の写真がでかでかと載りました。

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チームの最大の目標を僕の退場で達成できなかったことや、わざわざ横浜・東京から応援に来てくれた友人に顔向けできないこと、自分自身も天皇杯に出られなかったことなどが大変ショックで、更にはブログも炎上し、その他各種ネット媒体でも叩かれまくる始末。

一流選手であれば誰もが経験していることではありますが、当時の僕には本当に大きなインパクトで、しばらく病むことになります・・・(笑)

この辺の関連記事 遅くなりました。

 

 

 

 

 

 

 

左膝内側側副靭帯断裂&前十字靱帯断裂

そんな中、岩手でのシーズンは終わり、次なる目標は海外に向いていました。

ドイツ、ポーランド、ナイジェリア・・・色んな話をもらいましたが、友人である池田雄大くんのツテを使い、ボリビアへトライすることを考えます。元マリノスの10番、バルディビエソが監督を務めるチームなどを紹介してもらえるかも・・・という話もあり、毎日練習して午後は日雇いのバイトをいくつも兼任し・・・という生活でした。

この頃、親とは口を聞ける状態ではありませんでした。なので、自分でどうにかお金を用意しようと相当無理していたと思います。今考えれば・・・。

そんな時でした。ジュニアユースと高校生の練習試合に、ジュニアユースチームで出場。FWのポジションだったのに、無理してゴール前まで戻って、無理な状態から出したシュートブロックの足が壊れたのは。

 

左膝内側側副靭帯断裂、及び前十字靱帯断裂。

 

サッカー生命を絶たれてもおかしくない大怪我でした。

 

 

 

 

 

 

 

第一次リハビリ生活

最初はポジティブでした。怪我をしてもまた復活すればいい!これを機に自分の体を鍛えて、バイトもして、生まれ変わって復活しよう!そんな感じでデラポジティブ。

この辺の関連記事左膝前十字靭帯断裂、左膝内側靭帯断裂。全治8ヶ月。

 

手術を2回行い、歩けないところからのスタートでリハビリを行っていきました。

歩けるようになってからは、ピザ屋さんと電機屋さんを掛け持ちし、朝から晩まで毎日働き詰めました。19歳のフリーターにしてバイトで34万円稼いだのは今でも小さな自慢ですが、そんな生活ばかりで次第にストレスも溜まっていきました。

この辺の関連記事:バイトの話。

俺はサッカー選手になれるのだろうか・・・ていうかサッカーやりたくて普通の高校行かなかったのに、結局ただのフリーターかよ・・・。

そんなふうに病む毎日。

ある程度動けるようになってからは、バイトの時間を削った分をリハビリに費やしました。本当にハードな毎日でしたが、これを乗り越えたら俺はプロになれる!がんばる!と、気合で頑張る日々。

そんな日々を重ねながら8ヶ月間コツコツリハビリをし、ようやく医者から「試合に出てもいいよ」というゴーサインが出て、遂に9ヶ月ぶりに試合に出場します。

その試合の前半のことでした。悪夢が僕を襲うのは。

 

 

 

 

 

 

第二次リハビリ生活

少しスピードに乗った状態で、相手に押されただけでした。通常ならばなんの問題もないプレーですが、僕の足は「ゴリッ」という音とともに真下に崩れ落ちました。自分が一番、何が起きたかを理解していました。

この辺の関連記事改装のため閉店します。

 

「あー俺もうサッカー辞める。みんなありがと」

倒れた直後、周りに人が寄ってきた時に僕はこう呟いているのを覚えています。

二度目の前十字靱帯断裂を確信しながら救急車で運ばれ、サイレンが鳴り響きながら道路をスイスイ進んでいく中「どうして俺だけこんな目に・・・」と涙しながら、絶望的な気持ちを感じていました。

 

二度目のリハビリは身体よりも心のリハビリが必要でした。何事にもやる気が出ず、抜け殻のようにバイトをする毎日。口では「また復活してサッカーするんだ!」と強がっていても、さすがに2回目の靭帯断裂をしてまで”プロ”になれるほど甘くないと思っていましたし、自分自身また8ヶ月に及ぶリハビリをやり直さなければならないという現実を受け入れられませんでした。

大した経歴があるわけでもないし、実力の低さは折り紙つき。プロレベルには遠く及ばない状況なのは身に染みてわかっていたけど、それでもプロになりたいから頑張っていた・・・なのに、3度の手術に2年以上のブランク。そんなのないよお。

部活をやめたのも、高校で定時制に行ったのも、その定時制を辞めて通信制に行ったのも、岩手に行ったのも、大学に行かなかったのも・・・普通の同い年と違う道を歩み続けてたのはすべて「プロサッカー選手になりたいから」ということでした。そんなのないよおおお。

 

 

てなわけで病み倒す。死のうかなとか本気で言う毎日で、友人にも心配されるやら励まされるやら怒られるやらするんですが、うーん。心に響くようで響かない。

サッカー以外の道も模索しました。指導者になろうかとか、起業しようかとか、大学入ろうかとか、俳優とかミュージシャンとかお笑い芸人とか、、、。ありとあらゆる可能性を模索しますが、結局どれも心からやりたいとは思えず。

リハビリにも一切行きませんでした。手術して退院しても通院はしなければならなかったのに、退院してからは一度も病院に行きませんでした。

 

自分の人生って一体何なんだろう。俺は何のために生まれてきたんだろう。生きてる価値ってあるのかな。生きてる意味ってあるのかな。俺がいなくたって誰も困らない。

そんなことを考え続けた8ヶ月。そろそろサッカーボールも蹴ったりしてましたが、もう何もかもが嫌になった。

 

 

 

 

 

 

 

鹿児島でひとり暮らし

もう思いついてから行動までは一瞬でした。

曾祖母、曾祖父の家が鹿児島にあり、お二方がなくなった今は空き家になっているという情報を祖母から聞いていたので、思いつきで「鹿児島に行く」と・・・何故かそう決めました。ちなみに曽祖父にも曾祖母にも会ったこと無いし、ましてや九州にすら行ったことない。

ただ決めてからの俺のレスポンスの早さは凄まじいので、速攻LCCで成田ー鹿児島行きのチケットを取り、飛行機に。

家に入るにあたり、鍵なりガスなり色々と手配が必要だったのですが、初対面な遠い親戚の方々は当日になっていきなりやってきた僕を快く受け入れてくれました。本当に感謝でした。

曾祖母が同じってほとんど他人だと思うんです。なので、本来は鬱陶しがって何もせわしなくても良いぐらい。親戚とかの枠を超えて純粋に人として温かみを感じました。病んでたし嬉しかった(笑)

 

こうして鹿児島県は霧島市の海沿いの家で、親にも友達にも知人にも一切何も言わず、抱えていたイベントの企画とか、お話する予定だった人とか、仕事とかサッカーとか全部ポイっと捨て、ひとり暮らしがスタート。

貯金は直ぐに底をつくので、インターネットとパソコンを活用して仕事をしました。アフィリエイトサイトのライティングなどにはじまり、ゲームのシナリオライターやコンペ、ブログ代行に各媒体の記事執筆。なんだかんだフリーライターとしても活動して、気が付くとミュージシャンの批評とか海外ドラマのあらすじまとめたりとかそんなんまでやってました。どうにか月に食えるだけのお金は稼いでいた。

 

とは言え、基本的には病んでます、この時期。

この辺の関連記事:。。

マンガ見て、お笑い見て、アニメ見て、サッカー見て、本読んで、たまに散歩して・・・という生活を送りながら、ちょろちょろ仕事をして、あとは病み倒してた。海が近いので、よく夕焼けを見ながらグズったりしてた。

 

そんな状況でしたから誰とも連絡を取りたくなく、1ヶ月ほど電話もメールもLINEも全部無視していました。すると連絡が一切つかないことで、たくさんの友人に心配や迷惑をかけることに・・・。

共通の友人は俺しかいないような全然関わりのない友人同士(例えば地元の友達と、岩手の友達や大阪の友達)が、「リュウヤの友達だけど、何かしらない?」と、連絡を取り合っている状況で、とうとう妹にもバンバン連絡が入っていました。「お兄ちゃん何してるか知ってる?」みたいな。

さすがにこれ以上は迷惑かけられないし大事になるなと思い、友人たちに鹿児島に来ていることを告白。渋々、みんなと連絡が取れなかったことを謝ったのですが、その時のみんなはあんなに迷惑かけてたのにも関わらず本当に優しかった。

 

 

友達の優しさを直に感じ、生きている喜びとか価値を見出した僕は、もうしばらく鹿児島でゆっくりしながら今後のことを考えよう・・・と少しずつポジティブになっていきます。鬱を克服しつつある時期でした。

結局鹿児島には3〜4ヶ月ほどしかいませんでしたが(不思議とどのぐらいいたのか思い出せない)、ひとりっきりで自分のあり方についてトコトン悩んだ日々でした。辛かったし悲しかったけど、人間的に大きく成長出来た日々だったと思います。あってよかった。

 

 

 

 

 

 

親と和解。そしてタイへ

鹿児島から帰って、最初にしたことは恩師の宝槻コーチに相談しに行ったことでした。スーツケースをカラカラ引きながら成田から直接練習場へ向かい、自分の気持ちを洗いざらい話しました。

サッカーを続けるか悩んでたこと、プロになれるか不安なこと、自殺しようとまで本気で考えたこと、人生負け組のままなんじゃないかって思ってること、、、色々なことをウェンウェン泣きながら話した結果、宝槻さんからのアドバイスは「まず親と和解しなさい」ということでした。

ということで僕は、岩手から帰ってきて2年近く、ずっと家出状態だった実家に帰ることにしました。これは結果的に色んな意味でよかった。

 

久々に実家に戻りサッカーをする毎日でしたが、しかしそんな中で椎間板ヘルニアを患わってしまいます。くしゃみをするだけで激痛が走り、ヒドイ時は起き上がれないこともありました。

膝をかばいながらプレーしていたことが腰にきたようで、複数の医者から「もう少し悪化するようなら手術」ということを言われ、こんだけ手術したのにまた手術かよ・・・とまたも絶望的になるのですが、これはとある治療室を友人から紹介してもらうことで劇的に改善され、見事に復活します。この話はまた今度。

 

そしてヘルニアが改善された直後に、大きなチャンスが巡ってきます。タイへのトライアウトです。

 

 

 

 

 

 

 

タイでの日々

ただでさえ下手くそなのに、2年のブランクから復帰したばかりで、コンディションは20%ほどしか戻っていない・・・というとんでもない状況でしたが、何もしないまま21歳になっていた僕は足踏みしてられないわけで、タイの話を聞いた瞬間に行くことを決意します。

タイでは当初、数チームに10人ぐらいで行くトライアウトツアーを組んで向かったのですが、結局粘りに粘って13チームほどをトライしました。

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タイではサッカーでもたくさんの出会いがありました。Jリーグで200試合以上出場してる選手などトップクラスの方たちと一緒にテストを受けたり、自分と同じような境遇の選手に出会ったり、全く違う人生を歩んできた選手など、色んな日本人選手に会いました。

小さい頃から憧れていた人に出会うこともできたし、今となっては兄貴分とも言える先輩が何人もできました。タイに行って本当に良かった。

本当にたくさんの人にお世話になった。お世話になったどころの騒ぎではないぐらいお世話になったので、ここでは割愛させていただきます。でも、割愛しなきゃいけないぐらいお世話してくれたぜエピソードはたくさんある!

タイで出会った人たちにはすべてに感謝しています。

 

 

しかし、怪我もあり結局タイからは帰国。惜しい話もあったのですが、まあざっくり実力不足でした。

この辺の関連記事:やーやー、俺は負けたの。ぬははは。

 

 

タイから帰国の半年

タイから帰国してからと言うものの、自分でも見違えるように上達していきました。本当にうまくなったと思う。

色々と過去の経験を活かし、バイトはほとんどせず、午後はリラックスするか自己投資の時間にしてました。ほぼニート。でも、1日2時間だけの練習には全力を注げるように、他の22時間はすべて10時から12時の練習グラウンドの上に注いでいた。それが良かった。

この辺の関連記事:休むのもトレーニングってか、休むのがトレーニングじゃんね?って話

 

 

とはいえ帰国してからもインパクトの強いイベントが大盛り込みで、実は高校の時よりも怪我よりも鹿児島よりも一番キツかったのはこの時期でした。

ですが、メンタル的に成長したことで様々な(ほんとうに様々なw)困難を乗り越えることができ、人間的にもサッカー的にもグンと伸びたのがこの辺りです。

タイであと「一歩」足りなかったおかげで、あと「百歩」ぐらい進めた。そういう半年でした。本当に良い日々。一生の宝もの。

この辺の関連記事:運命とかパラレルワールドとか 

そうして頑張ってると色々とやってくるもので、縁もありスリランカに渡る話が出てきます。

 

 

スリランカでプロに!

スリランカは日本に居ながらにしてビデオを送り、それで決まりました。ビザも手続きもスムースに行ってくれました。選手登録は日本にいる間に終わりました。全部トントン拍子。あっさり。

 

あんなにプロになるのにもがいてきたのに、決まるときはこんなにちゃちゃっと決まるのか。というぐらい簡単に契約がまとまって、いざスリランカに渡航。

家、食事、給料を頂けることで、見事自分基準もFIFA基準もクリアしたプロサッカー選手になることができました。

この辺の関連記事:みなさんご無沙汰しています(Facebook)

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スリランカに渡ったそのデビュー戦で、前年度王者でAFCプレジデンツカップにも出場しているエア・フォースSCから決勝ゴール。自分としても鮮烈なデビューを果たすしたつもりなのですが、その次の試合で親指を脱臼してしまいます。

ただの脱臼に終わらず、紆余曲折あって全身麻酔で入院する羽目にまでなるなど、波瀾万丈っぷりを発揮してるのですが、どうにかプロ生活をエンジョイしている次第です。これが今現在。

 

 

 

今後のこと

まだまだサッカー続ける

とまあ、大変色々なことがありどうにかプロサッカー選手になれたわけです。

プロになる以前の自分は、ひとつの懸念がありました。それは、「もしプロになったら満足してサッカーやめちゃうんじゃないか」ということです。こんだけ大変なことがあったんだから、プロになれただけで燃え尽きちゃうかもしれない・・・というか当初の実力を考えれば、ここまでこれただけで奇跡的。十分じゃん・・・。

 

とは問屋が卸さず。

 

俄然やる気。です。

まだJリーガーにもなってないし、マリノスでプレーしたわけでもないし、日本代表に入ってもいなければ、ワールドカップのメンバーにも選ばれてない。そんな状況なのに、これで満足して辞めてくぐらいのものなら、最初からこんなに一生懸命サッカーなんてやってないわけです。

Jでもやるし、代表にも入るし、ワールドカップにも出る。5万人の前でプレーもするし、億単位の年俸も稼ぐし、ドキュメンタリー番組に密着取材もされる。

まだまだサッカー界でやり残したことは多々です。

 

そのためには、今までの常識とは外れたところからトライしていかないとダメ。

このブログもそのためのツールです。普通にサッカーやってたらなかなか起こせないことを起こすために、ブログを有効活用していきたい。ただの日記じゃないのよ、これは。

 

人とのつながりでここまでこれた俺だからこそ、もっともっとそういうパワーを活かしてどんどん成り上がっていきたい。

 

サッカー辞めてからのこと

社長にもなりたいし、ベストセラーサッカーにもなりたいし、サッカークラブの運営もしたいし、世界一周もしたいし、デカイ家も建てたい。

子供を教える立場にもなりたいし、ホームレスにもなってみたいし、芸能人にもなりたいし、街の隠れ居酒屋みたいなのもやりたい。

ビッグな大人になりたいし、庶民的でいたいし、スーパースターにもなりたい。

矛盾することもあれど、やりたいことはたくさんあるんです。だけど全部、サッカーでまずは成功する!ってのがキーファクター。サッカーでしっかり行けるところまで行けば、そのあとだってきっとどうにかなる。

人生で一番時間もお金も情熱も捧げてるサッカーなんだから、これでもっともっと上手くいかないと他でうまくいく筈がない。と思ってます。

 

あ、一番は幸せになりたい。素敵な奥さんと自慢の息子と可愛い娘で、あったかくてほんわかした家庭を作りたいです。それが一番難しそうだぜ。

 

その他

サッカー以外の仕事・実績

  • SOCCER KING FREEにてインタビュー記事・コラム記事の編集、及び原稿執筆
  • BSフジ「birth of the cool」出演
  • 各種媒体でフリーライターとして活動
  • 某スマホアプリのゲームシナリオ執筆
  • サッカー選手のプロモーションビデオ作製
  • ウェブサイト構築(wordpress)
  • 結婚式の二次会動画作製

などなど。怪我をしたことをきっかけに色々とお仕事でやってたりもします。

また、面白いことは何でもやるので、何かしらイベントやセッションなどありましたらお気軽にご連絡ください。

お仕事依頼等はmaluco.yutori★gmail.comへ(★を@に)

 

最後に

長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。マルヤマリュウヤという人間のほんの一部ですが、わかって頂けたかと思います。

見ての通り、器用なのか不器用なのかよくわからない「カオス」な人間でありますが、少しでも多くの人に「なんかおもしれえやつだなあ」と思って頂けるようになればこれ幸いです。僕の生き方を見て、なにかの参考やきっかけにして頂けることがあれば、是非その時には僕にもお伝え下さい、すごく喜ぶと思います。

 

このブログはもっともっと充実させていくつもりでして、まだまだβ版の粋を出ないのですが、サッカー選手らしからぬサッカー選手になるために!より魅力あるコンテンツに仕上げていきたいと思います。あーこんなこと書くサッカー選手おらんよ、世の中に。笑

 

以上、プロフィールでした!これからもよろしく!

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