ゆとり世代のプロサッカー選手。丸山龍也のオフィシャルブログ。現在は欧州リトアニアでプレー中。

2015年5月30日

サッカーは結局「ひとり」でやるものじゃないかなって

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最近、「大人になってから学ぶサッカーの本質とは」というブログがよくタイムラインに流れてくる。

拡散してるのは、うーん。なんて言うんだろう、いってしまえばサッカー版の「意識高い人」とでも言おうか?サッカーを追求していくことに夢中の大人たちが、嬉々としてリツイートしたりシェアしたりしているように感じる。

 

で、まあ僕もどっちかといえばそういう層に近いゾーンにいるので、もちろん読ませて頂いてる。

ふんふんと相槌を打ってみたり、最近始めたばっかりのブログなのに途端にシェアされまくってる所にジェラシーを感じてみたり、参考にしてみたり・・・笑

 

 

 

ちなみに作者の方とはFacebookの共通の友人が2人いた(笑)プロフィールには外国人リーグ所属と書いてあるので、多分対戦したことがあるはずだ。
※ここでいう外国人リーグとは、知る人ぞ知る東京都内のアングラなリーグで、草サッカーにしてはハイレベルな試合が行われる。首都圏在住の外国人を基本に日本人が混じってるリーグで、外国選手には元代表選手やトップリーグ経験者がうじゃうじゃしていて、日本人も海外志向なプロ・セミプロ選手が、調整のためによく参加していたりする。

 

 

 

このブログは実にサッカーの本質的な部分を突いていて、既存のサッカーメディアにはため息しか出てこない自分のようなタイプは皆、心地よくブログを読んでいることだろう。

 

 

サッカーは何人でやるもの? 

その中で先日こんな記事があった

サッカーは何人でやると思いますか? – 大人になってから学ぶサッカーの本質とは http://keikun028.hatenadiary.jp/entry/2015/05/27/171258

 

サッカーは何人でやるスポーツだと思いますか?

この質問にどう答えるかで、その人のサッカー脳がだいたい分かる。良い悪いではなく。

さて、あなたはどう答えますか?

・・・・・

サッカーは”11人でやるもの”と答えた人は本質が見えていないかもしれない。

サッカーは22人とレフェリーが常にピッチ上にいることになる。

 

この問いに対する正解は特にないけれど、サッカーは常に相手がいてレフェリーがいて状況が刻一刻と変化し続ける敵味方の状況を的確に「判断」し、最善の方法で「解決」する行為を90分続けるスポーツである。

 

答えはないとしつつ、11人でやると答えた人は本質が見えてないかも?と言っているので、「サッカーは相手がいるものだよ」というのが、この方の基本的なサッカー観なんだろう。

それに異論はないし、そういう考え方が出来る時点で、きっと今日日までにたくさんの経験値を積んでこられたんだろうなと察することが出来る。

 

 

 

 

 

 

でも俺は、サッカーは味方がいて相手がいてレフェリーもサブも観客もいるものだよ・・・というのを理解しつつ、でもまあ、結局ひとりでやるものでは?と考える。

 

 

 

 

 

 

人生は何人でプレーするものだろうか。

親はいるし、兄弟も友人も先生も仲間も上司もたくさんいるが、結局自分の人生をまっとうするのは自分一人である。だから色んな人にアドバイスを受け、相談をし、どれだけディスカッションしたところで、最後に何かを決めていくのは自分自身だ。

もちろん自立しすぎても良くないけれど、色んな人の助けを借り、迷惑をかけ、でも自分で歩んでいくものだと思う。結局最後はひとりだ、己自身だ。

 

辰吉丈一郎さんは一度引退した後、妻も子どももいながら網膜剥離で失明の危機に合い、ボクシングなんてとても・・という状況でありながら

「俺の人生は最後は俺が決めるもんやから、妻も子どもも関係ない」

と言って、周囲の反対を押し切り現役に復帰した。

今聞けば確かにそういうものだよねと思うけど、当時の文献とか映像とかを調べてみると結構世の中は批判的だ。家族がいるのに自分のわがままを通す馬鹿野郎がマジでパンチドランカーになりやがった・・・そんな感じで世間から叩かれている。

 

 

 

でも、これが究極であり、真理だ。

 

結局ボクシングをやりたい気持ちを抑えて、家族のために普通の仕事に従事したところで、辰吉さんの人生は本心から納得行くものにはならなかったかもしれない。やりたいことがあればとことんやる、たとえ周りに何を言われ、家族がいようが失明の危機にさらされようが、最後は自分で決めるのが人生だ。きっとそうだと思う、ホントの本当だ。

だからこそ、それに心打たれる人が周りに沢山いて、息子だって先日プロボクサーとしての道を歩み始めた。

 

 

 

人生はみんなが関わってるから、俺の人生はみんなのものだよ!なんて嘯いたとしても、多分ラストエンペラー溥儀みたいな操り人形の人生しか歩めない。

 

反発されながら歩むのを決めるのも自分。人の言うことを素直に聞くのも、自分で決めること。全部自分で決める。そういうことを忘れちゃダメ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

究極的にはひとり。

サッカーも同じだと思う。

 

味方はいるし、相手もいるし、レフェリーもいる。
戦術はあるし、セオリーはあるし、会場の空気感もある。
でも、最後に決断するのは自分だし、プレーを選ぶのは自分だ。

 

だからこそ自分のプレーに責任を持つし、いくら以心伝心の仲間がいて、有能な監督がいて、優秀なトレーナーに管理されて、最高のファンにサポートされていようが、俺も、本田圭佑も、メッシも、W杯決勝でPKを外したバッジョも、最後は自分で体を動かして自分で決断したプレーをやってきたし、やっていく。

 

 

 

ちょっとエゴっぽく聞こえるかもしれない。今、俺が結果が出てない原因はそこじゃないの?って勘ぐることもことも出来ると思う。

 

 

でも、仲間がいるのはわかるし相手がいるのもわかるけれど、やっぱり究極的に最後はひとりなのだ。人生も一緒。

というか俺にとって、バレーボールは6人でやるものだし、バスケは5人だし、野球は9人だし、テニスのダブルスはふたりで、30人31脚は30人でやって、バイトのシフトは皆で回すものかもしれない。

でもそれは俺がその程度の熱意しかそこにないから、みんなでやるものだと考えるから。もし遊びでバスケやってる時に、バスケはひとりでやるものだよ!なんて言う奴がいたら、なんてわがままで自己中なんだと思う。後ろからドつくかも。

 

 

 

でもサッカーは違う。サッカーは俺にとって人生そのものだし、サッカーに賭けてるし、サッカーで飯を食ってくのもサッカーで泥水を啜るのも俺自身だ。サッカーでの選択全てが、俺の人生に密接に関わってる。

だから、やっぱり考えぬくと最後はひとり。個人、己、自分自身だと感じる。これを人に委ねることなんてできない。自分の人生をリトアニア人に委ねるなんて死んでもしたくない。

 

 

 

 

だから、サッカーは”究極的には”ひとりでやるものだと思うわけです。

なんてね。

俺のサッカーと人生の本質を追求する旅も、まだまだ続く・・・

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