ゆとり世代のプロサッカー選手。丸山龍也のオフィシャルブログ。現在は欧州リトアニアでプレー中。

2018年1月20日

フットボールという大リーグボール養成ギプスで、俺は豪速球を手に入れたんだけどドン・ペリニヨン

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サッカーから離れている。

 

いや、厳密にいうと、選手から離れている。
もう本気でやる気が出てくるかわからないし、多分出てこないだろう。チャンピオンズリーグだ代表だなんだってのはスペインに行って完全に消え去った。
サスケのファイナルステージのクソ長い版みたいなサッカーの道のりで、しかも俺が掴んでたのはロープでなくタコ糸。今はそのタコ糸がぷっつり切れ、上からヒューッと落下している状況なのかもしれない。
でも落下してるのも悪くない。地面に着いたら何をしよう、次はどんなことに生きよう、心燃やそう、とワクワクすることばかりで、なにより気持ちがいい。もう上へ上がらなくて良いんだ、落ちて良いんだ、そう思いながら頬に当たる風が切なく、やさしい。

 

ただ、小さい頃から全力をそこに注ぎ込んできて、かつセンス溢れる天才的な人々が鎬を削っているプロサッカーの世界。それを理解しつつ、こんなこと俺が言うのはすんごい失礼だけど、いつかまた地球のどこか、すっごい面白い所でサッカーできたら良いな〜なんてのはすごく思ってる。サッカーは「また今度」なのだ。

とか言いながら、毎日草サッカーだのフットサルだのソサイチだの呼ばれ、あちらこちらで球を蹴らさせて頂いてます的身分だから、なかなか矛盾してること言うけど、ストレートにこれはサッカー選手から引退したといって間違いない。そう言いたくないから言わないけど。

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自分が生きてきた人生は、言わばこの業界の”邪道”で、でも邪道と言えどサッカー業界にいたわけだから、なかなかサッカーからは離れられない。
自分が今住んでいる家、食ってる飯、着てる物、お世話になってる人、感じる喜び、すべてもとを辿ればサッカー様のおかげです。サッカーに生きてきて、サッカーの世界に居させていただいてるからこそ、与えられてるものだ。

 

なので、今の自分は以結局前と同じくサッカーの世界にいて、でもそこから【現役】ってのをマイナスした世界に生きてる、と思う。会う人も大きく変わらない、新しく出会う人も、新しい楽しみも。

 

でも現役ではないだけで、ぜんぜん違う。
この違うってことを伝えたいのが今日のブログの主題で、でも簡単に説明できないからどう例えたら良いか考えてみた。足かせ、お荷物、そんな感じのイメージだけどそういうネガティブなものではない。

ピンときたのが大リーグボール養成ギプスだ。

 

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星飛雄馬が、父一徹に着けさせられ、トレーニングから日常生活まで常に負荷をかけ続けることで、豪速球を投げられるようになるというあれ。スポ根文化の代名詞、パワハラとモラハラの塊みたいなアイツ。

俺にとってサッカーを現役でやってることはこのギプスを付けている状態であったと思う。飛雄馬でいう豪速球を投げられるようになることは、俺にとっては成功した人生を手に入れたということで、そこを目指して日々強烈に負荷をかけ続ける毎日を送ってきた。

だから簡単なことを何かするのに、常に歯を食いしばって、失敗すれば普通以上に身体は痛くなって、心も疲れて、そういうサイクルだった。特にメンタル。

 

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好きな選手が喜怒哀楽が激しかったからか、俺自身がそうだからそういう選手に惹かれたのか、今となっては鶏と卵どっち先やねん議論的お話だけど、サッカーで上を目指してるからこそ、この喜怒哀楽もより激しくなっていった。

 

逆に今、その激しさは良い意味でない。悪い意味でもないかも。
ムカつくやつが居たらブチッと切れて、悲しいことがあったらこの世の底までタッチし、嬉しいことがあれば3日はハイで…そういう心の揺れ動きグラフはボールを蹴る量に比例して緩やかになってきて、今は文字通り「丸山」を描いてると思う。ちょっと前まで角山、いや星山だった俺は。

 

でも刺激的なことは世の中にたくさん溢れてる。楽しいこともそうだし、仕事でムカついたり、人間関係で困ったり、女の子にそっぽ向かれたり、もちろんその逆も全部あるし、例によって例のごとくサッカーしてても心が揺れ動く。

ただ、大リーグボール養成ギプスはとっくに外れているから、ナチュラルな自分でそういう感情に向かっていける。サッカーがあったから、丸山は星山だったのだ。

 

 

 

「サッカーやってたのとそれ関係あるの?」

おおありだと思う。サッカーで結果が出ない、サッカーで成長しないといけない、サッカーをもっとうまくならないといけない、でもうまくなってない、下手くそだ、結果が出ない、怪我してる、自分を取り巻くそういう現象がまさに大リーグボール養成ギプスそのもので、強靭な筋肉をつけるために必要な負荷は、いつも過度なストレスとなっていた。

そのストレスを背負って対峙する日常のアレコレは、それに投げ込もうとしたってコントロールが効かなくて、いつも大げさにズレていった。内角を狙えばデッドボール、外角を狙えばパスボール。

 

 

 

そんなことから開放されてる毎日は最高だ。大リーグボール養成ギプスを外して引退した飛雄馬は、きっと毎日が穏やかになるだろう。ストレスフリー、グルテンフリー、フリーメイソン、フリーハグ。
唯一ストレスになるとしたら、大リーグボール養成ギプスを着けた毎日に戻りたいなというストレスだろうし、それはまた俺も同じ。
人間は無い物ねだりで、無い物ねだりということは何をしたって自分にとって最高なんだという裏返しなんだろうけど、なかなかそうは思えない。隣の芝は青いし、隣の芝から見た自分の芝はもっと青い。隣の芝から自分の芝に戻ってくると、隣の芝はさらに青くなっていく。

 

ストレスがない分、人のことを考える余裕が少し出来たし、自分自身のことに焦点を当てることとバランスが取れてきた。

高校生の俺が、今この現状でこのセリフを言ってる俺を見たら鼻で笑うかもしれないけど、多分高校生の俺にこのブログを読まれることはないから、ビビらず声を大にして言う。俺は今、豊かな人生を歩めてると思う。

 

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明治神宮へ初詣に行った時、お賽銭を投げる時まで何も考えてなくて、神様に何をお願いしようかプチパニックになった。後ろも詰まってるし、何か言わなきゃ。

 

 

それで心の中にとっさに出てきたのが

「こんな沢山の人の話聞いて、神様も大変だと思います。あんまり頑張りすぎないでね」だった。

 

 

 

あとからゆっくり思い返して驚いた。ここ24年間の俺は「もう怪我はしたくないので左膝をよろしくお願いいたします」とか、「好きな〇〇ちゃんにもっと好きになってもらいたいです」とか「今年は絶対活躍するのでゴール決めさせてください」とか「お金欲しいねんけどくれや!」とか、そんなんばっかりだった。

 

自分のことばっかり考えてた自分が、人のことほんの少し考えられるようになったなと思ったら、とっさの時には神様のことまでを思いやってて(思いやってって言い方、神様に対して正しいのかは謎)正直、俺めっちゃ”大人”になってね?って気持ちで一杯になった。人のこと思えるまでは想定内だけど、神様て(笑)この体験はすごく新鮮で神聖だった気がする。

 

 

飛雄馬にとっての大リーグボール養成ギプスは豪速球を投げるためのもので、俺にとっての大リーグボール養成ギプスは成功した人生を手に入れるものとさっき書いたけど、実はギプスつけた甲斐あってそういうものは手に入ったのかもしれない。

 純白のメルセデス、プール付きのマンション、最高の女とベッドでドン・ペリニヨンがサクセスだと思ってたけど、そんな穏やかな自分になることも等しくサクセスなんだろうな。



 思ってた成功とはちょっぴり違うけど、サッカーという大リーグ養成ギプスのお陰で、まるやまりゅうやくんは成功を手に入れましたよ。そんなところでこの長文を締めくくってもよろしいでしょうか。

 

俺健康的な生活してるし、医療も進むし、少なく見積もってまだ74年は生きるでしょ。

 

大リーグボール投げられるようになった自分で挑めるこのマウンド、楽しさしかねえ。

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

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