ゆとり世代のプロサッカー選手。丸山龍也のオフィシャルブログ。現在は欧州リトアニアでプレー中。

2014年11月29日

罪を憎んで人を憎まず

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スリランカでの練習は2部練でなければ午後練だけなので、基本的に午前中はのんびりしています。言い換えればダラダラしている。笑

個人的には朝に練習がある方が好きです。1日の始まりがサッカーでスタートするって幸せだし、その後の時間が有意義に使えます。何より夕方の練習は眠い(笑)

 

 

まあ、そんなわけで午前中は携帯いじりながら物思いに耽って、自分の頭や心とあれこれ話し合ってる時間になるのが多いのですが、今日の午前中の考察テーマは罪を憎んで人を憎まずということでした。

 

罪を憎んで人を憎まず

調べると「人が犯した罪は憎むべきであるが、その罪を犯した人を憎んではいけない」という文字通りの意味。

解説は

 

人が罪を犯す理由には、そのような悪い結果になってしまうまでに、 それなりの事情があり、人そのものを憎むべきではなく、その罪に至るまでの 心の中で生まれていった悪い思いを憎むべきである、ということのようです。 昔は、「その罪を悪んでその人を悪まず(そのつみをにくんでそのひとをにくまず)」 と言っていたようです。この句は、孔子の言葉として語られていたようです。(http://kotowaza.avaloky.com/pv_fre18_01.html)

 

 

 

とまあこんな感じ。孔子の教えなんですね。

 

 

 

 

これはなんのきっかけか忘れたけど、ここ数ヶ月ぐらいで意識するようになった言葉です。

 

 

 

丁度1年前、怪我からやっとこさ身体的にもメンタル的にも復活した僕は、タイにトライアウトへ行くことになりました。それからの1年、本当に色んなことがあった。

こうしてスリランカでサッカー出来るようになったのもこの1年の出来事のひとつだから、そう考えると幸せなこともそれなりにあるんだけど、サッカーに始まり私生活やら人生ベースの話やらあれやこれや、とにかくしんどいことが多かったのも事実。まあ俺の人生なんて大概しんどいからいいんだけど(笑)

 

 

 

 

そんな中、やっぱり上手くいかないことが多いとどうしても人を憎んでしまうわけです。

「あいつが悪い」「アイツのせいだ」「あの人がいなければ」「ヤツにやられた」「あのクソ野郎」「使えねえ」「騙された」「死ねばいいのに」

人間の思考ってヒドイもんでして、人のこと褒めようと思うとなかなか言葉も出てこないくせに、悪口とか侮辱的なこととか、そういうのは止めどなく溢れ出てくる。

 

 

 

 

「その人のお陰で勉強になったでしょ」「良い経験だと思って」「まだまだ自分が未熟だからそういう人に会うんだよ」

 

 

 

嫌なことがあったりトラブルが有る度、まわりにいる先輩や友人たちはそう諭してくれました。でも、その時はそんな言葉をかけられてしっくりしても、何時間と経つとやっぱり腸が煮えくり返る。そういう繰り返しの毎日。

 

 

そんな時「罪を憎んで人を憎まず」という言葉を、Twitterかなんかのbotとかで何となしなキッカケで見ることに。それ以来、その「罪を憎んで人を憎まず」は時たま頭に浮かんでくるようになりました。

 

 

人間って根本的に悪い人なんてほとんどいない

なんかムカつくことがあってこっちがカッカしてると「でもあの人本当は悪い人じゃないんだよ。こんなこともあってね、こんなとこもあってね、それでね…」と、その人がいかに悪く無いか説明してくる人がいます。俺もします。

 

 

でも「そいつがいかに悪くねーか」を説明することって無意味だと思うんです。何故なら根本的に悪い人なんてこの世にほとんどいない。

 

 

少なくとも、「こいつ性根腐り倒してるな、マジわりーやつだな、もう100%悪者だな」って思う人に出会ったこと、俺はないわけです。でも、悪いことはした。人に迷惑をかけた。人を悲しませた。だから俺はムカつく。だから俺は悲しんでる。そこは事実なわけで、「罪」は確かに起きた現象としてその場に存在するわけです。

 

 

 

 

 

良い奴だけど、最悪なことをした。

良い人だけど、悪いことしちゃった。

素晴らしい人だけど、罪を犯した。

 

 

 

 

 

 

世の中にあふれる悪いことなんて全部こういう仕組みの上で成り立ってる。

 

 

 

そう考えると「罪を憎んで人を憎まず」という考え方は、俺の場合だと恐ろしく合点がいくのよね、うん。

 

 

もし俺の頭に罪を憎んで人を憎まずがなかったら

今、俺が頭を抱えているトラブルとかストレスとか、そういうものの原因は自分にあります。全部俺が未熟だから、自分が不完全だから、自分がポンコツだから、自分がクズだから抱えている問題です。

 

もし俺がバロンドール獲ってワールドカップも優勝してお金も捨てるほど稼いでて能力的にも秀でてて、180cm以上の身長でマッチョだったら。つまるとこ、俺がクリスティアーノ・ロナウドのワールドカップ優勝したバージョンの日本人だったら・・・今抱えてる問題は全て屁にも思わない、むしろそもそも存在しなかったと思う。

 

 

 

 

でもそういう人間になるのって難しいというか無理だし、人間は常に不完全な生き物ですからあり得ないわけなんだけど、俺はなるべくそう思うようにしてる。全部俺のせい。

 

 

 

 

 

だけど、そんな風に思ってたとしても「アイツのせいで今俺は・・・」と考えざるをえない瞬間ってやっぱりあって、俺の場合「アイツのせい」にしたくなる人物ってのは数人いるわけです。

 

 

 

 

そんな「アイツのせいにしたくなる」俺の頭の中に、もし仮に「罪を憎んで人を憎まず」って言葉が存在しなかったら。

 

 

 

やっぱり俺はそいつらを憎んでると思う。復讐とかしたくなったりすると思う。

 

 

 

 

でも、そんな時に「罪を憎んで人を憎まず」って言葉がふわっと頭の上に出てくると、不思議と俺にダメージや不都合を与えて来た人たちにも、それなりの可愛げとか愛くるしさが出てくるわけです。

 

 

マジあれやられたのはうぜーけど、あの人凄いしな。才能あるしな。人生大変そうだしな。おバカだなあ。どうしようもないなあ。男だしな。女だしな。やれやれ。あーもう。みたいになる。

 

 

 

 

んなこと言ってるからてめえはダメなんだ!男ならやり返せ!

的なことを言ってくれる人もいて、まあそれはそうでわかる話なんだけど。なんか俺はそうは思わないわけです。

 

 

 

 

悪いのは何かしらの歯車が狂い、なんのきっかけかなぜだかどうして起きてしまい、その場所に存在しただけの「罪」。であって、その罪を起こした人そのものじゃないわけです。

 

その罪や悪いことが起きた過程には色いろある。俺の不十分もあったし、そいつの不運もあったし、巡り合わせが巡り巡って「ボンッ」と罪が現れちゃったわけです。

多分、ビッグバンで地球が誕生したのと何ら変わりはない。たまたまそこに偶然のような奇跡がぶつかって罪が生まれただけなんだ。

 

 

 

 

これからも大事にしたいツミニク。

多分俺みたいなデンジャラスな人間が生きてる以上、これから周りはトラブルだらけストレスまみれ罪のオンパレードなわけです。

それでいちいち人を憎んでたら、せっかくの限りある人生なわけでもったいない。

それよりもその罪を犯した人の良いところを見つけてあげたい・・・とは問屋が卸さないけど、少なくともそいつを憎んだりしてる自分ではいたくない。

 

 

だからなんかあったら「ツミニク」「ツミニク」って心のなかで呟こう。

それだけでストレスも軽減されるわけです。積み重なってどっかで爆発しそうだけど。笑

 

 

 

だから、給料未払いが続いてるビッグボスも許してやろう。あいつ悪いやつじゃないし(笑)

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